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ジョーカーの責任は誰がとるべきか?

配信サービスやブルーレイ・DVDなどがすばらしい理由のひとつは、自分のお気に入りのDC映画を再び鑑賞して、新たな視点から見つめなおす機会を提供してくれることだ。トッド・フィリップスの映画『ジョーカー』を例に挙げてみよう。すでにこの映画を劇場で鑑賞したことがあったとしても、改めて観ることで新たに気づくことがきっとたくさんあるだろう。とりわけ、まだ一度しか観ていないのであればなおさらだ。

映画『ジョーカー』といえば、主演のホアキン・フェニックスと作曲家のヒルドゥル・グーナドッティルがともにアカデミー賞を受賞した、大ヒット作だ。公開から5年経った今でもDCファンたちの間では活発な議論がなされている作品でもある。それは、アーサー・フレックは社会の犠牲者なのか、それとも単に自分の抱える不幸に責任を持てなかった狂人なのか?という議論だ。この映画はある意味、観客にとってロールシャッハ・テストのような効果があると言えるかもしれない。なぜなら、この映画を鑑賞した1人ひとりが、映画から受け取るメッセージの解釈が異なっていることが明らかだからだ。それでは、双方の主張を見ていくとしよう。

社会がアーサーを見捨てたのだろうか?アーサーの母親は彼を操り、虐待した。アーサーは自分自身が精神的に不安定であることに気づいており、本能で適切な機関を通じて助けを求めようと考えた。しかし、不幸なことに彼を担当したソーシャルワーカーは彼が立たされている苦境に同情的ではなかった。その結果、資金不足を理由に相談が打ち切られることになり、アーサーは一方的に締め出されてしまった。アーサーは次に、仕事を見つけることで社会に溶け込もうと試みたが、同僚たちは彼のことをあざけり、裏切り、雇い主は彼をまるでゴミくずのように扱った。

心の奥底では、アーサーは善い人間でありたかった。3人のサラリーマンとの地下鉄での一件は、単にかわいそうな女性を放っておいてあげて欲しい一心から起こった。また、アーサーがウェイン邸を訪れたときも、彼はブルース・ウェインと遊んでいただけで、傷つけるつもりはなかった。攻撃的な方向に向かってしまったのはアルフレッドがアーサーのことを追い払おうとしたからだ。アーサーは確かに、映画の中で何度も卑劣な行為を繰り返しており、それを正当化する理由などもちろんない。しかし、注目すべきは彼がターゲットにした人物は全員、なにかしらの形で裁きを受けるべきと彼が感じた人間たちであったという点だ。

これ以上続ける前にひとつだけ、私からはっきり言わせてもらいたいことがある。それは、どんなにアーサーが周りに恵まれていなかったからといって、その報復として殺人を犯すことは決して許されることではない、ということだ。アーサーがマレー・フランクリンに、「報いを受けろ」と言う場面があるが、もちろん誰一人として殺されることが「報い」である人間などいない。アーサーは確かに犠牲者ではあったが、彼の思想は間違ったものであり、彼の取った行動はいずれも違法でモラルに欠けていた。しかし、主人公が必ずしも正しい正義感を持った英雄でなければならないというわけではない。結局のところ、この映画のタイトルは『ジョーカー』であり、『バットマン』ではないのだから。

ここで、この議論のもう1つの疑問が浮かび上がる。それは、アーサーはジョーカーにならなければならない運命にあったのだろうか、というものだ。仮に彼を担当したソーシャルワーカーがもっと共感を示してくれて、職場の同僚たちも親切だったとしても、アーサーの人殺しの傾向は果たして本当に変わっていたのだろうか?もしかすると、彼をとりまく社会はアーサーの暗い、殺人鬼としての側面を「作り上げた」のではなく、単に「もとから彼の中にあった殺人鬼の人格の成長を速めただけ」と言えるのではないか?アーサーが適切なセラピーを受け、コメディアンとして成功し、マレー・フランクリンからも敬意をもって扱ってもらっていたとしても、彼がジョーカーになった可能性はぬぐいきれないのだ。もしかすると、「ジョーカー」としての彼の人格は、アーサー自身の根底を作り上げている一部かもしれないのだ。現に、彼は殺しが好きだと言っていた。彼の真剣な瞬間は内省だったのか、それとも後悔だったのか?本当のところは、誰にも分からない。

この議論により、この映画はある意味『バットマン:キリングジョーク』の実写版の一種であると言えるかもしれない。アラン・ムーアとブライアン・ボランドによる人気グラフィックノベルのなかでは、オリジナルのジョーカー誕生秘話が語られている。『バットマン:キリングジョーク』の中でのジョーカーの信条は「たった1日の最悪な日によって人は狂うことがある」というものであり、バットマンはこれを否定している。はたして本当に、その「たった1日の最悪な日」の犠牲者こそがアーサーなのだと言いきれるのだろうか?それとも、バットマンが言うように、アーサーの中に初めからずっと「悪」は存在していたのだろうか?

『バットマン:キリングジョーク』と言えば、この有名なグラフィックノベルと同じように、映画『ジョーカー』も不確かな終わり方をしている。なぜアーサーは物語の最後、病院で血の足跡をつけて歩いていたのか?私たちが見てきたもののうちどこまでが実際に起こったことだったのか?アーサーが隣人のソフィーとの関係を頭の中ででっちあげていたことを思い返せば、このエンディングの一部も彼の頭の中で作られた可能性だってあるのだ。

以上のような疑問から、「ジョーカー」というアーサーの狂気じみた性格がもとから彼の中にあったものなのか、はたまた社会によって作り上げられていったものなのかという議論が生まれる。しかし結局のところ、はっきりとした答えは得られない。アーサーはどう転んでも悪役としての道をたどる運命にあったのか?それとも、自身の不運の犠牲者になっていなければ幸せな人生を歩む可能性もあったのだろうか?もし時間があれば、ぜひこれらの疑問を念頭に置きながら、この映画を見返してみてほしい。こういった議論こそが、映画『ジョーカー』がR指定であるにもかかわらず興行収入がうなぎのぼりになった理由であり、おそらく今後何年もの間、DCファンたちの間で楽しく互いの主張をぶつけ合える理由でもあるのだから。

トッド・フィリップス監督、ホアキン・フェニックス主演の『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は大ヒット上映中。詳細はこちら

ライター:ジョシュア・レイピン=ベルトーネ
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