バットマンとジョーカーの関係性とは?うわべだけの関係を述べるならそれはいたって簡単だ。バットマンのアニメを観たことのある子どもにでも聞けば、誰もがバットマンがヒーローであり、ジョーカーが悪役であると教えてくれるだろう。しかし、彼らの関係性についてもう少し踏み込んでみた人であれば誰もが、闇の騎士(ダークナイト)と犯罪界の道化王子の関係は、コミック誌で描かれるもののなかでもとりわけ複雑な関係性であることは知っている。彼らが敵同士であることは疑いようもない事実だが、同時に彼らが共依存的な関係にあることも確かである。そんなケープを纏った聖戦士(バットマン)と彼の最大の敵であるジョーカーの関係性についてじっくり吟味してみるのも楽しいのではないだろうか。
彼らが最初に顔を合わせたのは1940年の『Batman #1(原題)』。この回は激しいアクション満載だったが、現代の彼らの間にある哀愁漂う関係性を示唆するものはまったくなかった。さらに、ジョーカーならではのブラック・ユーモアも全く感じられなかったのだ。バットマンとジョーカーが初めて会ったとき、2人がお互いにかけた最初の言葉を考えたことはあるだろうか?ジョーカーが「殺してやるぜ!」と言うのに対し、バットマンは「その言葉は前にも聞いたが、私は生きているぞ!」と答えるのだ。
いうまでもないが、この後、彼らの掛け合いは、どんどん面白さを増していくのだ。
面白いことに、バットマンとジョーカーのライバル関係は実は軌道に乗る前に終わる可能性があった。ジョーカーは、『Batman #1(原題)』の最終話で誤って自分自身を刺してしまい、死んでしまう予定だった。しかし、DCコミックスの当時の編集者ホイットニー・エルズワースは、このキャラクターに価値を見出し、最後の何コマかのセリフを変えることでジョーカーが一命をとりとめたと読者に思わせることに成功した。もしエルズワースが手を加えていなければ、その後80年にもわたるバットマンの歴史は大きく変わっていたはずだ。ジェイソン・トッドはバールを見るたびに震え上がることはなかっただろうし、ホアキン・フェニックスは2019年にもっと休暇がもらえたことだろう。
興味深いことに、ジョーカーの二度目の登場(1940年の『Batman #2(原題)』)では、ダークナイトが道化王子を改造しようとしている。バットマンはジョーカーを入院先からさらい出し、彼がこれ以上罪を犯したくないと思えるようになるまで脳外科医にロボトミー手術を施させようとしたのだ。この計画は、かなり非倫理的であることは間違いないが、のちのジョーカーのさまざまな悪行を知っている我々からすれば、こんな突飛な考えをしたくなるバットマンの気持ちが分からなくもない。
基本的に、初期のコミックスで描かれるバットマンとジョーカーの関係性について話すことはほとんどない。バットマンV.S.ジョーカーの物語はバットマンV.S.その辺の犯罪者と大して変わらなかった。ジョーカーは確かにファンには人気だったが、高い期待を持たれていたわけではなかった。実際、1942年の『Detective Comics #62(原題)』以降、ジョーカーは30年以上もの間、殺人を犯さず、つまらない窃盗程度の犯罪を行うのみにとどまった。
しかし、必ずしも2人の対決内容がテンプレート通りだったというわけではない。1942年の『Batman #12(原題)』では2人の関係性に新たな要素が加わった――そう、ジョーカーがバットマンのことを殺すことができない、という要素だ。この話の冒頭で、ジョーカーは動けなくなったバットマンにとどめの一発を打ち込もうとする手下を止める。
「誰だって銃で人を殺せる。でも俺はただの誰かじゃない!俺はジョーカー様さ!俺が殺しを行うときは想像力を使わないとね!」さらに、この回では初めてジョーカーの死のトラップが紹介される。トラップは回を重ねるにつれてより精巧なものになっていき、1966年から始まるバットマンのTVシリーズで華々しく披露されることになる。
ジョーカーが、なぜバットマンを殺すことに躊躇するのかは明確にはされていない。ダークナイトを亡き者にしようと熱心になっている日もあれば、別の日に戦うために生かしておこうと考えているような日もある。しかし、ジョーカーのような予測不能な混沌の案内人に一貫性を求めようとすること自体がそもそもばかげているのかもしれない。
1951年の『Detective Comics #168(原題)』では初めて、ジョーカー誕生の物語が語られる。ジョーカーのフラッシュバックによると、彼はかつて、レッドフードという名のつまらない犯罪者だった。バットマンとひと悶着あった際、レッドフードは彼から逃れるために化学槽に身を隠した。そして、その中に入っていた毒素がレッドフードの皮膚や髪を、まるで道化師のような見た目へと変えてしまったのだ。
この物語の一部は『バットマン:キリングジョーク』やティム・バートンの1989年公開の映画『バットマン』、スコット・スナイダーとグレッグ・カプロの『バットマン:ゼロイヤー 陰謀の街』などにも収録されている。この新事実は、バットマンとジョーカーの敵対関係に新たなレイヤーを加えることになった。なぜなら、この過去が明るみになったことによって、バットマンはジョーカーの誕生に深く関わっていることになり、2人の奇妙な結束力をより強固なものにすることになったからだ。この誕生秘話をのちに語りなおした作品のなかには、ジョーカーが化学薬品の入った槽へ飛び込んだ直接的な原因がバットマンにあるかのように語られているものもある。
1973年発売の『Batman #251(原題)』では、ジョーカーが4年ぶりにコミックスに戻ってきた。この時のストーリーこそが今後のバットマンとの何年にもわたる関係性を作ったと言っても過言ではない。そして、『The Joker’s Five-Way Revenge(原題)』のなかでは1942年以来のジョーカーによる殺人が描かれたものの、彼はいまだに最大の宿敵を殺すことには抵抗があった。物語のある時点で、ジョーカーはバットマンを殺せるチャンスがあったが、その時もやはり手が止まってしまう。
「俺たちが何年もの間、ともに遊んできたこのゲームが無くなってしまうのであれば、勝つことなんて意味がない」と、ジョーカーは自分に言い聞かせる。その後の物語から、彼のためらいは共依存からくるものだということが分かる。ジョーカーにはバットマンが必要で、犯罪界の道化王子はダークナイトもまた同じように、自分のことを必要としていると信じたかったのだ。
1988年にはDCコミックスから『バットマン:キリングジョーク』(原作:アラン・ムーア、作画:ブライアン・ボランド)というグラフィックノベル作品が出版された。この名誉ある作品はバットマンに、ジョーカーとの関係をより深く考えさせる内容だった。物語はバットマンがアーカムを訪れるところから始まる。そこでは、殺し合いを再開してしまう前に、互いのことを理解し、歩み寄ろうとするバットマンの姿が描かれている。ダークナイトがジョーカーに語りかけるたびに、その言葉に含まれる動揺が感じ取られる。バットマン自身、自分とジョーカーの関係性をしっかりと理解できておらず、怖がっているようなのだ。
「最近よく考えるんだ」バットマンが話し始める。「お前と私の事を。我々が最後にどうなるのかを。このままでは殺すか殺されるかだ」ダークナイトとジョーカーの関係性にはどこか底知れぬ恐怖があり、それはバットマンすらも怖がらせるほどなのだ。しかしもちろん、ジョーカーはバットマンの数枚上手だったので、この時すでに偽者とすり替わっていた。残念ながらバットマンは物語の序盤のシーンで自分の気持ちを吐露しているものの、話し相手が間違っていることに気づかないのだ。
そうしてジョーカーは逃げ出し、バーバラ・ゴードンを撃ち、彼女の身体を不自由にさせ、ジム・ゴードンを連れ去った。これはすべて、ジムの気を狂わせることでいかに人が正気を失いやすいものかを示すために行ったことだったが、ジムはその手には乗らなかった。そして最終的に、バットマンは自分の最大の敵と再び対峙し、自分たちの関係を軌道修正させようとする。
「お前の回復を手伝い、力を合わせて一緒に働けたかもしれないんだ。だからもう、自分を追いつめるな。苦しみを一人で背負い込むな。我々が殺し合う理由などない。どうなんだ?」というバットマンの言葉に、ジョーカーはあと少しでなびきそうになったが、一瞬、間を置いてから「ダメだ。遅いよ。遅すぎるぜ…」と答えるのだった。とらえ方によっては、ジョーカーの声に後悔が滲み出ているように感じられるかもしれない。
この物語では雨のなかバットマンとジョーカーが、ともに笑い合うという物議をかもす結末で終わる。それから何十年もの間、ファンはエンディングの曖昧さについて議論してきた。笑いが止むとバットマンとジョーカーがコマから離れていくのだ。しかし、私にすればこの曖昧なエンディングはバットマンとジョーカー2人の関係性を的確に表しているようで、しっくりくる。
最後にもう一つ、『バットマン:キリングジョーク』でバットマンとジョーカーの関係性がはっきりとした点がある。バットマンはアルフレッドとの会話のなかで「アルフレッド、私は奴を知らない。何年も経つのに、私は奴を、奴は私を、まったく知らないんだ」と言っている。バットマンはペンギンやリドラーについて必要なことはすべて知っているが、ジョーカーの存在に関しては混沌と矛盾だらけなのだ。バットマンはミステリーに惹かれる人物であるからこそ、これほどまでジョーカーに惹きつけられているのかもしれない。
『バットマン:キリングジョーク』は2人の関係性に新たな深みを与えるだけでなく、バーバラ・ゴードンを完全に動けない状態にした点でも重要な作品となっている。ジョーカーはムーアとボランドの本が出版される以前にもかなりあくどいことはやってきたが、今までと違い、この出来事はのちのバットマン・ワールドに影響を及ぼす犯罪のひとつとなった。そしてもちろん、これが最初で最後というわけではない。
同じく1988年にリリースされた『A Death in the Family(原題)』では、ジョーカーは2代目ロビンのジェイソン・トッドを殺害した。この出来事により、ジョーカーは後戻りができなくなった。彼とバットマンはもう、雨の中笑い合いながら更生についての話し合いなどできなくなったのだ。ジョーカーの存在はバットマンにとってあまりに個人的なものになってしまい、彼が怒りでジョーカーを殺してしまわないようにスーパーマンが間に入ったほどだ。
ジョーカーが『Batman #450-451(原題)』で再び戻ってきたとき、ダークナイトは彼とまた対峙することを恐れた。ロビンの死はすべてを変えてしまい、ジェイソンがのちに復活してからも、バットマンとジョーカーの関係性は元に戻ることはなかった。この手の自己疑念や恐怖の感情はバットマンがほかの敵と対峙するときに感じるものではない。ジョーカーのみが、彼をそのような気持ちで縛り付けることができるのだ。
この敵対関係はスコット・スナイダーとグレッグ・カプロの『バットマン:喪われた絆』のなかでさらに探求されることになる。この物語は前出の『A Death in the Family(原題)』へのオマージュとして作られており(『バットマン:喪われた絆』の原題は『Death of the Family』)、ここではジョーカーがバットマンの仲間を次々と誘拐していきながらバットマンに、「お前は俺のことを自分のパートナーたちよりも愛していることを心の底では分かっているのだろう」と語りかける。ジョーカーはそのまま2人の特別な関係について話し続け、バットマンになぜ、彼が自分の息の根を止めないのかといった難しい質問を投げかけた。ジョーカーは確かに狂人かもしれないが、彼の放った言葉はバットマンとその仲間たちの間に亀裂を入れるには十分だった。最終的にはダークナイトが勝利するが、この物語によって、彼の心の一部はジョーカーのものであり、他の誰にも侵されることはないということをはっきりとさせた。
バットマンとジョーカーの関係性に関する全く違う記事をほかのメディアで書くこともできるが、その際、テレビシリーズ「Harley Quinn(原題)」第1話について触れないわけにはいかない。あらゆる意味で、この話は『バットマン:喪われた絆』と真逆の内容になっている。ここではハーレイが、ジョーカーの本当の意味での恋人は今までも、そしてこれからもバットマンであるということに気づくのである。2人には特別な絆が存在しており、ハーレイであれアルフレッドであれ、その絆に穴を空けることはできないのだ。
我々は普段、バットマンの視点から2人の関係性を見ているため、それがどのようなものであるかをしっかりと理解するのが難しい。ジョーカー側からの視点はあやふやなもので、彼の矛盾する行動は一層我々を混乱させる。ジョーカーは、自分たちの敵対関係を婚姻関係と比較しながら、バットマンに自分なしでは存在し得ないと説明する。バットマンからすれば、単にジョーカーを独房に入れたいだけなのだが、2人が互いに持っている奇妙な縛りは誰も否定することができない。バットマンとジョーカーは結局どういう仲なのか?もしかすると、この問いへの完璧な答えは一生分からないかもしれない。結局のところ、世界で最も偉大な探偵が自分たちの関係性をはっきりと理解できないのであれば、恐らく他の誰にも理解できないだろうから。
ライター:ジョシュア・レイピン=ベルトーネ Xアカウント(英語のみ):@TBUJosh
注釈:この特集で述べられている見解や意見はジョシュア・レイピン=ベルトーネ個人のもので、必ずしもDCエンターテインメント及びワーナーブラザースの見解を反映するものではありません。また今後のDCの見通しを保証または否定するものでもありません。