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『THE BATMAN-ザ・バットマン-』を「ザ」・バットマンたらしめるもの

『THE BATMAN-ザ・バットマン-』の「THE(ザ)」の部分には、なにかがある。映画史を大いに盛り上げたこの作品は現在デジタル配信中である。そのおかげで、ブルース・ウェインが自分のコンタクトレンズ型カメラに録画された映像をチェックするのと同じくらいの細かさで、我々もこの映画を隅々まで確認できるだろう。しかし、そのときに、視聴する人に特に注意深く見てほしい部分がある。それは、冒頭の部分だ。バットマン自身が登場する前に現れる場面のことである。我々はすでにスクリーンで『バットマン ビギンズ』『バットマン リターンズ』『バットマン フォーエヴァ―』などを観てきたが、正真正銘の『THE BATMAN-ザ・バットマン-』を観るのは初めてだ。今回の映画はどのようなところが他のバットマンシリーズと違い、『THE BATMAN-ザ・バットマン-』たらしめる映画になっているのだろうか?言葉のダジャレを許してもらえるのであれば、一体この映画のどの部分が、まさに定冠詞「THE(ザ)」のバットマン映画になっているのだろうか?

まず、コミックスの歴史をさかのぼってみよう。1939年の『Detective Comics #27(原題)』で初めて、単なる「バットマン」と呼ばれる前の「ザ・バットマン」が登場する。この元祖バットマンのストーリーは、まさにミステリーものだ。犯罪者を震え上がらせる「ザ・バットマン」という、まるで都市伝説のような存在の正体を暴いていくというもので、物語の最後にそれが億万長者のプレイボーイ、ブルース・ウェインであるということが明かされる。この時点では「ザ」という言葉が入っていることはそこまで重要ではないように思われるかもしれない。しかし、単なる「バットマン」とはまったく異なる印象を与える。ただの「バットマン」では、ゴッサムシティで活躍する華やかな人物をイメージするだけだろう。しかし、「ザ・バットマン」は、特定のひとりとしての印象を与えるのだ。

「ザ」・バットマンは我々のなかの誰か、ではない。他に比べられる人物も存在しない。バットマンのみなら、単にコウモリと人間の中間的な存在になる。しかし、「ザ」・バットマンになると定義が難しくなり、誰も止められない存在へと変わる。「シャドウ」や「ファントム・ディテクティブ」など、バットマン以前に登場したパルプ・マガジンのヒーローたちと同じように、バットマンももとは得体の知れない恐怖の対象かつ、興奮するようなアドベンチャー・ヒーローの1人として誕生した。それゆえ、『ザ・バットマン』のなかでも我々のヒーローはバットシグナルに込められた目的を体現する人物として描かれている。バットシグナルはただの合図ではない――警告なのだ。

しかし、これが映画の冒頭に出てくるのには理由がある。我々はタイトル画面を観て、「ザ・バットマン」――想像しただけで犯罪者たちを震え上がらせる恐ろしく非人間的な恐怖の存在――という印象をまず受けるだろう。そして、この映画の最も面白いところのひとつはここなのだ。ブルース・ウェインは、自分自身に対して抱いている固定概念やミッションを、物語を通して進化させていく。そして実は私たち自身も、「ザ・バットマン」に対する捉え方を、ブルースの成長とともに進化させていかなければならない仕組みになっているのだ。

「ザ・バットマン」という言葉は映画のなかでセリフとしてたった一度しか出てこない。しかも、バットスーツを着た男を指すのではなく、バットマンという概念そのものを指して使われている。過去のすべてのバットマン映画と違い、「ザ・バットマン」は登場人物のことを指していない。バットマンという象徴をどのように使うのが一番よいのかという問いになっているのだ。バットマンという言葉の意味だけでなく、バットマンそのものの定義について、さらにはその象徴を体現する人物のあり方についての問いかけとして使われているのだ。

『THE BATMAN-ザ・バットマン-』は、自分の心のなかで作り上げられた神話の形に合わせて、自分自身と自分を取り巻く人たちを変化させていく男たちの物語である。「ザ・バットマン」や「ザ・リドラー」などは、本人たちが自分なりの理想を投影させて作り上げた存在なのだ。そして、その存在は現実とどこかで衝突してしまう。なぜなら、彼らが作り上げた理想像は、現実の人間らしい欠点から逃れることができないからである。ブルースは自分なりのバットマン像を作り上げようとしたが、両親の過去を知ったことでそれがかなわなくなった。代わりに、物語を通して、バットマンの人物像はアルフレッド・ペニーワース、セリーナ・カイル、そしてリドラー自身によって作り上げられることになるのだ。バットマンとリドラーがアーカム・アサイラムで向き合った際、お互いが頭のなかで想像していた人物ではなかったことに気づく――そしてバットマンに関して言えば、この事実は彼の自省にもつながった。バットマンが単なる復讐の象徴として戦うことに何の意味があるだろう?復讐のみを原動力にした生き方、ましてや夢なんてあるのだろうか?バットマンが、単に犯罪者が恐怖する警戒すべき存在になってしまっては、シティの象徴にはなれないだろう。確かにバットマンは警告の象徴かもしれない。しかし、それと同時に合図でもある――どこかの誰かが、悪を狩るだけでなく、人を支える希望のともしびとして存在することを教えようとしてくれているのだ。

ライター:アレックス・ジェフィー
Xアカウント(英語のみ):@AlexJaffe

注釈:この特集で述べられている見解や意見はアレックス・ジェフィー個人のもので、必ずしもDCエンターテインメント及びワーナーブラザースの見解を反映するものではありません。また今後のDCの見通しを保証または否定するものでもありません。