毎週のように事件が起きる眠らない街ゴッサム・シティ。ジョシュア・レイピン・ベルトーネによるこのコラムでは、バット・ファミリーの注目すべき点やその理由について詳しく解説していく。
『Batman: Gargoyle of Gotham(原題)』は、私がこれまでに読んだバットマン・コミックスのなかでも、最も暴力的な作品かもしれない。さらに幼少期からバットマンを読んできた私としても、これはそう簡単に語れるものではない。しかし、DC BLACK LABELとして出版されたこの作品に目を通した瞬間、その残虐非道な描写には衝撃を受けたのだ。『The Killing Joke(原題)』や『Black Mirror(原題)』、これまでミスター・ザーズがコミックスで繰り広げた全ての戦いと比べてもさらに暴力的なのだ。だが、これらのバイオレンスな内容は決してDC BALCK LABLEの作品として発行するためのお飾りではない。過激な暴力が物語の一旦を担い、作品のテーマとして生きている。
スーパーヒーロー作品を読んでいると、ページのなかで繰り広げられる多くの戦いに読者の感覚は鈍くなっていくものだ。バットマンとその仲間は、長年にわたって犯罪者たちを殴り続けてきたので、彼らがいかに過酷な生活を送っているかを忘れてしまっていた。もしかしたら、その原因はカラフルなコスチュームや空想の舞台での出来事であるという点かもしれない。しかし、コミックスに出てくる暴力が、カートゥーン作品で目にするような暴力と同じものに感じるように、知らず知らずのうちに私たちの遺伝子レベルに刷り込まれているのだろう。
だが、『Batman: Gargoyle of Gotham(原題)』は一味違う。ラファエル・グランパによるこの作品は、ダークナイトの日常がいかに過酷なものであるかを読者に気づかせるだろう。バットマンが犯罪者の目玉に指を突っ込み、眼窩(がんか)から血が噴き出る。その少し後には、ヴィランがダークナイトの後頭部をハンマーで殴りつけるのだ。凶器が頭部にあたる瞬間、吐血するブルース。かなり過激な戦いだ。
DCユニバースは実際の世界からあまりにもかけ離れている。そのため、私たちの脳がコミックスで描かれるバイオレンスと現実のバイオレンスとを全くの別物として認識するのだろう。私は、はっきりいうとグリーン・ランタンが指輪の力で作り出した武器を使い、ダークサイドを叩きのめしたところで何も感じない。これは現実世界で同じようなことが一切起きないからだ。しかし、バットマンがハンマーで殴り続けられるのを目撃するのは話が変わってくる。
作者であり作画も手掛けたグランパを賞賛したい理由が、まさにこの点である。彼の描く戦いを目にしてから、これまで私がもっていたスーパーヒーローコミックスで目にする暴力への先入観を、真剣に考え直さなければならなくなったのだ。彼の素晴らしい表現力によってバットマンの過酷な使命を、これまでにない形で解釈することができるのだ。
『Batman: Gargoyle of Gotham(原題)』のあるシーンでは、カートゥーン的な乱暴さが2つのユニークな視点から描かれている。バットマン、そして本作のヴィランであるクライトゥーンは、別々の過激なアプローチで「バイオレンス」と向き合う。クライトゥーンが暴力を受け入れ、バットマンは自らのアイデンティティを捨てることで、暴力に染まらないようにしている。表現を変えれば、物語のヒーローとヴィランが共に葛藤を抱えているのだ。
クライトゥーンは常に涙を流した姿で目撃されるマスクを被った犯罪者だ。このサディスティックなヴィランは、自身がカートゥーンで見た暴力行為を再現するのである。みなさんが子供の頃によく見ていたであろう、ルーニー・テューンズのエピソードで繰り広げられるクスっと笑ってしまうドタバタ劇を思い出してもらいたい。それを現実世界に当てはめれば、クライトゥーンがいかに危険な存在なのか分かるはずだ。
クライトゥーンもまた、私たちがいかにカートゥーン的なバイオレンスに鈍感になっているかを自覚させる存在の一人だ。このヴィランは、ハンマーと金床で人を殴りつける。バッグス・バニーが同じことをしても何とも思わないが、クライトゥーンが殴りかかり、被害者にひどいケガを負わせるところを見るのとでは全く訳が違うのだ。見るに堪えない内容ではあるが、バッグスとその仲間たちは、笑いのネタとして同じことをしているのを考えてみてほしい。
クライトゥーンが暴力を受け入れているのに対し、バットマンは自分から暴力を切り離そうとする。彼はアルフレッドとの会話のなかで自分自身のことを三人称で表現し、ブルース・ウェインをこの世から消し去る計画について話す。「私に課せられた使命に全てを捧げるために必要な次のステップは、彼の存在、そして彼にまつわる記憶を消すことだ」とバットマンは言う。これはバットマンが自分自身に言い聞かせているだけで、恐らく本心ではないだろう。
バットマンとブルース・ウェインの関係性については長年にわたって、数えきれないほどの討論が繰り広げられてきた。ブルース・ウェインこそが本来の姿なのか、はたまたブルースとしての人格は両親が殺害された際に一緒に死んでしまい、バットマンこそが唯一の人格なのか。この疑問を多くの作者がそれぞれの形で探求してきた。『Bruce Wayne: Fugitive(原題)』などの作品では、バットマンであることを辞めた姿も描かれているのだ。結論をいってしまうと、ブルース・ウェインはバットマンの人間性であり、ブルースがいなければ、人の心を失い、人間でさえなくなってしまうのだ。
それではなぜ、バットマンはこの作品のなかで、ブルース・ウェインの人格を抹殺しようとしているのか。私は心理学者ではないのだが、おそらく彼は暴力と自分の距離が近づくことで、人間性を失っている。バットマンという人格から人間性を切り離すことで、数々の凄惨な体験を心のなかで吸収しようとしている。先に述べたように、彼はアルフレッドに対して、「ブルース・ウェインを殺す」ではなく「存在を抹消する」という表現をしているのだ。これは非常に明確な表現であり、ブルースの本心が垣間見える瞬間だ。クライトゥーンは暴力を受け入れ、バットマンは暴力から距離を置こうとしているのだ。
『Batman: Gargoyle of Gotham(原題)』には、まだまだひも解くべき物語があるだろう。バットマンとクライトゥーンのお互いの葛藤が、物語という旅路で交差するのも時間の問題だが、物語の第一章が示すのは血にまみれた道だ。
ライター:ジョシュア・レイピン・ベルトーネ
Xアカウント(英語のみ): @TBUJosh
注意:この記事で述べられた見解や意見はあくまでもジョシュア・レイピン・ベルトーネ個人の見解によるもので、必ずしもDCエンターテイメントやワーナー・ブラザースの意向と一致するものではありません。また今後のDCの見通しを保証、または否定するものではありません。