初めて『ザ・フラッシュ』を観た時、マイケル・キートン演じるバットマンの復活に衝撃を受けた。バットウィングで戦場を飛び回る姿に、かつての決めゼリフ。それは、まるで年月の経過を感じさせなかった。
そして配信で2回目の視聴をした時(この映画は何回か観るべき)、1回目の視聴では見落としていた細かい部分に気が付いた。私たち視聴者はバリー・アレンの物語に集中してしまいがちなのだが、そこにはバットマンに関する面白い謎が隠されている。
具体的にいえば、なぜバットマンは引退したのか。ブルース・ウェインはどのように暮らしていたのか。なぜ最初はゾッドとの戦いを拒んだのか。そして、なぜ髪もひげも伸びっぱなしだったのか。といったことだ。本編において、その答えは明確にはされていないが、それを導き出すためのヒントは十分にあった。
まず、バットマン引退の理由は最も分かりやすい。ブルースの言葉を借りるなら、彼は「もう俺は必要ない。時代は変わった。ゴッサムは世界一安全な街になった。」と言っていた。
だとすると素晴らしい。『バットマン ザ・フューチャー』や『バットマン:ダークナイト リターンズ』などでは、ゴッサムにはまだ犯罪が蔓延しており、ブルース・ウェインは他の理由によって引退を余儀なくされるからだ。キートン版バットマンはミッションを達成している。ゴッサムは救われたのだ。『バットマン』シリーズでは珍しい結末である。
だが、ミッション後のバットマンはどうしていたのだろうか。ブルース・ウェインとして友人や家族と過ごす場面を想像しそうになるが、コミック版とは異なり、キートンが演じたブルース・ウェインにバットファミリーはいない。いるのはアルフレッドただ一人。実は、キートン版バットマンには、ブルース・ウェインとしての生活がほとんど描かれていないのだ。
1989年の『バットマン』を思い出してみてほしい。ビッキー・ベールとアレクサンダー・ノックスは最初、目の前の人物がブルース・ウェインだと気づいていなかった。彼が自分から名乗ったほどだ。2人は、そこがウェイン邸で開かれたブルース・ウェインのパーティーだと知っていたうえに、彼らはプロのジャーナリストだ。それにも関わらず、彼の顔を分かっていなかったのである。
そしてノックスとベールは、ウェイン夫妻の殺害も記事を探すまで知らなかった。だが、それ以降の『バットマン』シリーズでは、ゴッサムの誰もがそれを知っている。これはどういうことか。つまり、ティム・バートンが監督を務めた作品のブルース・ウェインは、超有名人ではないということなのだ。
『バットマン フォーエヴァー』のヴァル・キルマー版ブルース・ウェインは、雑誌の表紙を飾り大企業を率いていたが、キートン版は違う。『バットマン』や『バットマン リターンズ』において、彼がウェイン・エンタープライズ社の社長であることは言及されていない。納得できなければ、もう一度当時の作品を観てみてほしい。これらの作中では、ブルースはただの金持ちである。マックス・シュレックとの会議ではビジネスマンのように見えるが、社長であるとは言っていない。
つまりキートン版ブルース・ウェインには、バットマン以外の生活を築いていない。彼はすべてをミッションに捧げていた。それこそが彼の存在する理由だった。子供はおらず、恋人とも別れていた。
犯罪がなくなれば、バットマンの役目は終わりである。ブルース・ウェインは、何をしていたのだろうか。彼のアイデンティティーが戦うことだとすれば、その後の彼には何も残っていなかったのだ。『ザ・フラッシュ』に登場したブルースは、まるで長いこと意気消沈していたように見えた。ウェイン邸は荒れ果て、家主も同じようになっていた。サンダルを履いて無精ひげを生やす姿に、かつての面影はないといっていいだろう。
バットマンの存在意義が失われたブルースは、ただ漠然とした日々を過ごしていた。2人のバリーがウェイン邸に入った時、ブルースが趣味を探していたような形跡があったが、あのサンダルと乱れた髪から判断するに、それには夢中になれなかったのだろう。
では、なぜゾッドとバリーの戦いを助けることを拒んだのだろうか。おそらく長年の憂鬱のせいで、情熱的になれなかったか、あるいは、普通の暮らしを奪ったあのアイデンティティーを取り戻したくなかったのかもしれない。彼は自分に価値を見出せなかったのだと筆者としては感じる。ゴッサムがバットマンを必要としなくなった時、ブルースは自分が必要とされない日常に慣れようとした。年を重ねるたびに、その思いが彼を弱らせたのだろう。
だが、ひとたび冒険への呼びかけに応じると、彼は明らかに変わった。スーツに身を包んで「バットマンだ」と言った時の笑顔は最高だった。それは、2人のバリーの反応を楽しんでいたからではない。久しぶりに力がみなぎったからだ。彼は生きるための支えを得た。セリーナ・カイルもビッキー・ベールもいない。アルフレッドもこの世を去った。自分が経営する会社もかつてのようなきらびやかな生活もない。そんなブルース・ウェインにとっては、バットマンこそがすべてなのだ。
そう考えると、ゾッドの手下・ナム゠エクと戦った後のブルースの反応には納得がいくだろう。
瀕死状態のバットマンを抱えたフラッシュが「もう戻せない?」と聞くと、バットマンは「もう戻した」と答えた。
バリー・アレンのおかげでブルースは活力を取り戻し、(マイケル・キートンと同年齢だと仮定すればだが)70代前半の者なりに、やれることをやったのだ。
ある意味、『ザ・フラッシュ』は教訓めいた物語だ。バリーを通じて死を受け入れることを、そしてバットマンを通じて、戦うことは人生の代償ではないということを教えてくれている。そして、それはキートン版バットマンの物語に新たな情緒的な一面を加えている。また新たな視点で、昔の彼の作品を観たくなった。
だが、この34年のバットマン物語を悲劇に変えてはいけない。彼は後悔なく死んでいった。彼はゴッサムの犯罪を根絶し、スーパーガールを解放し、さらにはフラッシュがマルチユニバースのヒーローとなる手助けをしたのだ。確かにバットマンは過ちも犯したが、それは我々への教訓といえる。またそれは、卓越したレガシーであることは間違いない。
アンディ・ムスキエティ監督による、マイケル・キートン版バットマンの『ザ・フラッシュ』は、10.20ブルーレイ&DVDリリース、デジタル配信中です。
ライター:ジョシュア・レイピン゠ベルトーネ
Xアカウント:@TBUJosh (英語のみ)
注釈:この特集で述べられている見解や意見はジョシュア・レイピン゠ベルトーネ個人のもので、必ずしもDCエンターテインメント及びワーナー ブラザースの見解を反映するものではありません。また将来のDCの展望を約束または否定するものでもありません。